あたたかいスープを作ろう、食べよう。


大きなベッドから下りて、薄く開いたままのドアをすり抜ける。左右 重さの違う足音は、それでも1人分。来客の深夜徘徊に気づかない 家主は、初めて来たときに座らされた椅子よりもう少しだけ大きい、 柔らかなソファで、小さくした体に毛布を巻きつけて寝ている。
少尉、静かに言ったら思った以上に小さくて、唇を湿らせてもう少し 大きな声を出した。

「少尉、」

これで起きなかったら諦めよう。床に膝をついてじっと眺める。
大きすぎて捲っていたシャツを下ろした。どこからか入り込んでいる 隙間風が冷たい。こうして少尉が起きるのを待ってる間にもどんどん 冷たくなっているだろうベッドに戻りたくなったけど、戻れない理由を 思い出して踏みとどまる。あと30秒、それだけ待ったら諦めよう。
どうか、目を開けて。
電気も点けずに30秒、じっと数えて待った。それでも少尉の寝息は 静かに一定のまま、寝返りも打たなければ寝言も言わない。起きる 気配、まるでなし。諦めよう。広すぎるけど、寝れないことはないし、 いざとなったら少尉のように毛布に包まって床で寝たって良い。朝 見つかったら理由を聞かれるかもしれないけど、そんなものは少尉 より先に起きてれば良いだけの話だ。大丈夫。
ゆっくりと、立ち上がる。なるべく音を立てないようにベッドの部屋に 戻る。ぺた、カシャ、ぺた、カシャ、・・・・・・今度作ってもらうときは、 吸音性を高くしてもらおう。
ぎしっ。
不意に、大きく音が鳴った。そおっと下を見る。あぁ、この辺の床は 音が立つって、少尉が言ってたっけ。天を仰ぎたくなる。足音だけに 集中して、足元を疎かにしてた。
ぎしぎしと振り向く。今の音で起きたらしい少尉が立ってた。あぁ。 今度は本当に天を仰いだ。起きてもらいたかったのはさっきまでの 話で、今はもう、起こすつもりはなかったのに。

「大将? どうした?」

毛布が床に落ちる。少尉が歩いてくる。中途半端に振り向いたまま 動けずに、とりあえず目だけそらした。

「トイレか? 腹でも減ったか? なんか出たか?」

少尉が思いつく理由を聞いて、そうか、普通はそういう理由だよな、 と思う。こんな理由で起こして悪かったな、とも。夜、一人でトイレに 行けないほど子供じゃないし、場所もわかってる。夕食のスープは すごく美味しくて何度もおかわりしたから、腹も減ってない。なんか 出たかって、何か出るのかこのアパート。出そうではあるけど。
すっかり目が覚めたらしい少尉は、テーブルの灰皿を近くに寄せて 煙草に火を点けた。ぼうっと明るく、弱い光に体を少しほぐされて、 ようやく少尉と向き合った。黒い上下は、夜の中でさらに暗い。
どうしようか。ごまかしてしまおうか。ちょうどいま立っている場所は キッチンにも近いし、水を飲みに起きたと言えばそれで終わる。そう したら、またあのベッドに戻れば良い。広く、冷たいベッドに。

「・・・・寝れないんだ」

ぽろりと落ちた。俺じゃ拾えない言葉を少尉は簡単に拾い上げて、 寝れない、繰り返す。そうして少し眉根を寄せた。

「やっぱり寝づらかったか、あのベッド」

「いや、そういうことじゃ、なくて・・・・」

「ん?」

冷静になって考えると、なんてことを要求しようとしていたんだろう。 否定したけど、何を言うつもりだ、俺は。本当のことなんかみっとも なくて言えやしない。どうしよう。どうしよう。

「アルがいないと、ダメかやっぱり」

「あぁ」

そうか、そうだよアルがいないんだ。何てことだ、忘れてたなんて。 あいつは今頃宿で何を考えてるんだろう。俺よりよっぽど寝れない あいつは、一晩中、何を考えているんだろう。
俺がここにいる理由を忘れてた。喧嘩して宿を飛び出て、思いつく 場所はここしかなかった。あぁもう、迷惑かけっぱなしだ少尉には。
なんかもう、顔から火が出そうだ。最上級に恥ずかしい。
できることならば毛布で身体全部を隠してしまいたいという気持ちは 気づいてくれないらしい少尉は、だったらちゃんと宿に戻るんだぞ、 もちろん今すぐじゃなく、なんて言っている。どうやら、さっきの俺の 呻き声を肯定の返事だと思ったらしい。違うのに。
今から仲直りしに、謝りに行くって言ってここを出ようか。夜の風は 冷たいだろうけど、こんなにも火照った体と頬にはかえってちょうど 良いだろう。頭を冷やしながらアルへの言葉を考えるのも良い。1度 思いついてみれば、それは素晴らしく最適な答えに思えた。

「しょ」

「明日の朝、送ってってやるから。・・・・大分冷えたな、平気か?」

「・・・・うん、大丈夫・・・・」

タイミングを、逃した。明日送ってくれるという厚意を無碍にするのも どうだろうと、思って、いやこんなの言い訳だ。こうやってずるずると 悩んでいたってしょうがない。これからもここに泊まることがあれば、 いつだって少尉は俺にベッドを譲るんだろうから、これはずっと付き まとう問題だ。なら今のうちにさっさと解決してしまったほうが良い。 その方が良い。
言えるだろうか。恥も遠慮も子供っぽいプライドも脇に置いて。
でもそもそもここに来た原因が子供染みてるんだし、恥もさっきから かいてるし、いきなり来たこと自体が迷惑だ。遠慮も何もない。全部 今さらだ。あぁ、緊張する。言えるだろうか。この口は普段、こういう ことには使われないから。
やたらと俺を甘やかそうとするこの大人に、もう1歩近づいてみよう。
たった一言、言えるだろうか、さぁ、ちゃんと。


あのベッド、一人じゃ広くて眠れません!