その年の春先の流感に、雷蔵がやられてしまった。
医務室で横になり、養生する雷蔵を、友人たちはもとより、
交流のある後輩や先輩も幾人か、入れ替わり立ち替わり、
小まめに顔を出して見舞った。雷蔵は皆から好かれていたから。
後輩は別としても、だが、大半の友人たちは、もう五年生だ。
長居する者はいない。二言三言交わして、さっと引き揚げる。
三郎とてその例外ではなかった。例外ではなかったのだけれど。

雷蔵が床に伏し三日目、廊下の先に頭身のちぐはぐな人物を見つけた兵助は、
走り寄り、その肩を叩いた。

「三郎、雷蔵のとこ行くのか?」
「ああ」
「俺も行くよ」
三郎が少し黙った。
「何」
「いや」

二人は医務室へ足を向けた。兵助は大きな目をぱちくりさせながら、
三郎の変装の、丸いほっぺたをつつく。
「やっぱりしんべヱは無理があるって」
「どうもたまにはしないと落ち着かない」
三郎が己の顔の前に手をかざす。すると兵助が二人になった。
「よせやい」
げえ、と口の端を下げる兵助に、三郎は笑った。
「雷蔵に当ててもらおう」

医務室に着き、おとないを告げて入室する。
熱のため赤らんだ顔の雷蔵が、やあ、と声をかけ、二人も、やあ、と返す。
雷蔵は二人の兵助に視線を行ったり来たりさせて、だんだん眉根を寄せて
しまった。
「うーん、……」
兵助は傍らの、もう一人の『兵助』を小突いた。
「ほら、だめだ、悩み始めた、熱が上がってしまう」
「仕方がない」
仕方がない、と言う割に三郎は、ちょっと嬉しそうな様子で雷蔵の顔になった。
雷蔵の顔がほうっとほころぶ。

「ああ、そっちか」
「そう、こっち」

兵助と三郎は雷蔵に、代わりばんこに報告した。
今日は、い組はこれこれの授業をしたよ。先生がこけて、笑った奴が叱られた。
ろ組の、誰それの世話していた花が一つ咲いたよ。
「じゃあ、そろそろ」
「うん、明日には熱、下がるといいな」
「ありがとう」
二人が腰を浮かせかけたところで、雷蔵が、あ、待って、と布団の端から手を挙げた。
「三郎」
「なんだい」
「悪戯、していないだろうね」
「していないよ」
「誰かの顔で誰かの悪口を言って、喧嘩させたりしていないね」
「していないよ」
「ハチのおかずの皿に、こっそり生きたとかげを忍び込ませたりしていないね」
「していないよ。それは二年の時に一回だけだったろう。それにあいつ喜んでたし」
「お前それでやめたんだろ」
「……先生の振りをして、下級生の課題を勝手に変えたりしていないね」
「していないよ」
「本当の、本当だね」
「本当の、本当だとも」
兵助は二人のやり取りを見て、何かに似ている、と首を傾げて思案した。
心配されるはずの病人が、一心に、健康な相手を、あれもこれもと、心配している。
――あ。

「……雷蔵、三郎のお母さんみたい」

え、と雷蔵が言う。三郎がやや間を空けて、そう言われると思った、と呟いた。
「あの、僕、口うるさいかい」
「いや、雷蔵は私の悪戯好きを心配しているだけだろう。気にかけてもらえて嬉しいよ」

兵助は、変装好きの偏屈な友人の口から出た、素直な好意を寄せる言葉に 驚いた。
何だろう、お腹のあたりが落ち着かない。三郎は本気で言っているのだろうか、
そりゃあ三郎は雷蔵を気に入っているだろう、
でも、そんなにさらりと気持ちを言葉にするだろうか、
そんな、謎の多いこの彼が、謎であり続けていることを選んでいる彼が、
こんなに簡単に手の内よりももっと深くて広くて、大切な、
たったひとつしかない、曝け出してしまえばなんにも隠せやしない、
心の内を、打ち明けるのだろうか。
「そうだよね、もとはと言えばお前の普段の行いの悪いのがいけない」
「雷蔵、容赦ないな……」
ぼんやり感想を述べつつも、兵助はますます居心地が悪かった。
だって、自分にはこんなに動揺する出来事なのに、雷蔵には、ぜんぜん
特別のことでは無いようで。
その時、でもなあ、とのんびり三郎が顎に手をかけた。
「病人に心配をかけても良くないな。ひとつ、約束をしよう」
「約束?」
尋ね返す雷蔵に、三郎は両手をそれぞれ自分の両膝に当てやや身を乗り出し、
大真面目な顔で、誓った。

「君が健康でないときは、私は悪戯をしない」

瞬きをした雷蔵は、息を吐いて眉を下げた。
「本当は普段からしないでほしいところだけど。……きっとだね」
「ああ、きっとだ」
そうして二人は穏やかな微苦笑を顔に浮かべた。
そうしていると、まるでほんものの双子のようだった。

折から中庭から届いた小鳥の囀りに、兵助はその約束の続きの幻聴を、
聞いた気がした。そして、自分の心のありようを伝えるには、自分たちには、
今しかないのだということを、つと胸を突かれるように思い出した。
次はない。思い出せ。初めからそういう決まり事。思い出せ。
この幸せな箱庭の夢はあと二年も続かない。思い出せ。
死は己の影の中にある。未来には何の確約もないことを。
死は別れは音もなく兆しもなく、振り向けばごく近く、
触れそうなほど近くの、そこにあることを。

――きっとだよ。

この学校にいる時分はね。




影の囁く声を聞け