四角い水槽、水はたっぷり


息を荒く切らしたあの子が、初めて泊まりに来てから増えたもの。小さな部屋着、 洗面用具、俺には到底読めやしない難解な本。ただ与えられることを良しとしない 大将が使えるようにと、いつからか物を置く位置は少しずつ低くなっていた。俺に 与えられるばかりじゃなく、向こうも俺に何かを返すために。ここにいるときくらい、 そういうことは忘れても良いんじゃないか、俺は勝手にそう思っている。けれど、 子供でありながら錬金術師でもある彼にとっては、等価交換が大原則なわけで。 そのバランスを崩す方が良くないのか、とも思っている。微妙な複雑な心境だ。

その子供は、現在ソファで読書中。背表紙だけ見たけど、中まで見たら頭が痛く なりそうだったからやめておいた。賢明な判断だったと思ってる。大佐もあれだけ 仕事を抱えながらでもこういう資料を用意するのを忘れないんだから頭が下がる。 放っておけばこのまま泊まりそうな子供に声をかける気にもならず、そうなったら アルに連絡しなきゃなぁとぼんやり思う。またいつもの宿だろうから、電話番号は 聞かなくてもわかる。十時を過ぎたら電話しよう。きっと笑いながら、お願いします と言うんだ。

「少尉」

「お?」

もう読み終わったのかと手元を見れば、まだ三分の一は残っている。珍しいことも あるもんだ。それとも本の内容に見切りをつけたか? 俺はよくわからないけど、 錬金術にもジャンルはあるみたいだし、大将の読みたい内容じゃなかったのかも しれない。目の疲れや空腹などはこの子供の読書を妨げる理由にならない。

「どうした?」

「あのさぁ、あの水槽、何?」

「あぁ」

空っぽのガラスケースを水槽と呼んだ大将から、窓際のそれに目を移す。

「なんかその辺整理してたら出てきた」

ここ最近、家では寝るだけって日が続いていたから、部屋の中はそりゃもう悲惨な ことになっていた。片付け始めたら止まらなくなって、小休止を設けたところで本を 抱えた大将がドアを叩いたというタイミング。ふぅん、とか興味なさそうに言うから また本に戻るのかと思えば、ぱたんと本を閉じて立ち上がった。俺の前を横切り、 ガラスケースの前へ。

「大将?」

何もないその中を、じっと覗き込んでいる。何か、見えてるのかね。
俺も立ち上がって、同じように覗こうとして、やめた。代わりに窓の向こうの夜空を 仰ぐ。満月には少し足りない大きさの月が白く輝いている。

「少尉、何でこれ水入ってねぇの?」

「いやー、うん、ちょっと」

「ん?」

ぽつぽつと、昔のことを少しだけ話した。まだこっちに住み始めたばかりの頃に、 一緒に暮らしていた彼女がいたこと。ここで飼ってた魚が死んで、それでも水槽は 捨てられずに水だけを入れていたこと。俺の帰りが遅い日は、彼女が水面の月を 見ていたこと。俺の煙草の量と、帰りが遅くなる日が増えていって、深いため息の 果てに彼女が出て行ったこと。窓から水を捨てたこと。大将は、あのときの彼女と 同じように水面の月を見ながら聞いていた。

「じゃあ少尉、今度は俺が良いモノやるよ」

そう言って悪ガキ全開で笑う子供に引っ張られて、中途半端な懐かしさと切なさを 捨てきれないまま俺は玄関の鍵を閉めた。




「なんっか、こお・・・・・・」

「んー?」

独り言のつもりだったのに大将が振り向くから、銜えていた煙草を指に挟んだ。

「非番なのに、私服なのに、ここにいるのがすげぇ変な感じ」

「じゃあいっそ、みんな呼ぶ?」

その流れわかんねぇし、俺は笑って大将はまた前を向いて、俺の部屋から勝手に 持ってきたらしい何かを赤いコートのポケットから取り出した。一瞬チカリと光った気がする。はてなんだろうか。
真夜中の司令部の屋上。建物に入ってからここに来るまでの間いろんな奴に声を かけられて、終いには報告書を持ち出す奴まで出てきたから慌てて逃げ出した。 今日は非番! そう叫んで逃げる俺と一緒に走りながら、大将はやたら楽しげに 笑っていた。

空を照らす青い光が、大将の手元からバチバチと雷のように。
背中を向けられたままの作業だから何をしているのかは分からないけれど、見た ところで何が起きているのかは分からないだろうなと思った。

「少尉、これ」

白い手袋をした右手から、小さなガラス球のようなものを渡された。小さくて、でも きらきらと光っている。月の光を受けて光っているだけかと思ったが、俺と月との 間は大将がいるんだから、単に反射して光っているわけじゃないと気がついた。 角度を変えてみても、手で壁を作ってみても、輝きは消えない。

「すげぇなこれ、どうなってんだ?」

ガラス球から視線を外して、立ったままの大将を見上げる。月に照らされる大将の 髪もガラス球のように光っていた。こうやって見上げるのは新鮮だ、と知られたら 怒られそうなことを思いながら、少しだけ目を細めて笑う大将の解説を待った。

「んー、光を中で反射させまくって、逃げられなくした感じ」

「へー。すっげーなあ大将」

「少尉、俺が言ったこと分かってる?」

「よくわかんねぇけど大将がすげぇことしたのは分かった」

「ははっ」

まるでアルに対するみたいに笑った大将を見て、俺も笑った。


少尉だったら、時計の修理も金の練成もガラス箱の練成も、賢者の石や人体練成 でさえ全部『すげぇこと』でくくってしまえるのかもしれない。それが救いなのか、 俺たちの馬鹿馬鹿しさや虚しさを示してるだけなのかは知らないけど。
嫌われたくない人が増えてしまったなぁと、綺麗な夜にそれだけを残念に思った。


月を掴めはしないけど、光だけなら